取り分を増やす——統合的交渉とパイの拡大
レッスン5:取り分を増やす——統合的交渉とパイの拡大
このレッスンで学ぶこと
- 複数の論点を同時に扱うことの意味を理解する
- ログローリング(論点の重みづけの違いを利用した交換)を説明できる
- MESOと条件付き合意という2つの技術を理解する
- 「値段だけの交渉」に落ちない設計の考え方を身につける
レッスン4では、原則立脚型交渉の4原則を学びました。本レッスンでは、その4原則の中でも「複数の選択肢を発明する」を土台に、中核メッセージの4つ目である「取り分を奪い合う前に、取り分の総量を増やせないかを確かめる」という考え方を、具体的な技術として掘り下げます。レッスン1で紹介した統合的交渉を、実際にどう組み立てるかを学ぶレッスンです。
なぜ複数の論点を同時に扱うのか
レッスン1で見たとおり、交渉が単一の論点、例えば価格だけをめぐるものであれば、それは分配的交渉になりやすく、一方が得れば他方が失う構造から抜け出せません。しかし、実際の交渉の多くは、価格以外にも複数の論点が同時に存在します。納期、数量、仕様、支払い条件、保証、契約期間、アフターサービス——これらは、価格ほど目立たなくても、交渉のテーブルに乗せられる論点です。
複数の論点を同時に扱うことの利点は、それぞれの論点に対する重要度が、当事者ごとに異なることを利用できる点にあります。ある論点は自分にとって重要度が低くても、相手にとっては重要度が高いかもしれません。逆に、別の論点は自分にとって重要度が高くても、相手にとっては重要度が低いかもしれません。この違いを見つけ、交換の材料として使うことで、双方が「自分にとって重要な部分で得をした」と感じられる合意を作れます。これが、取り分の総量を増やす、パイの拡大と呼ばれる発想です。
💡 ポイント パイの拡大は、魔法のように何もないところから利益を生み出す技術ではありません。当事者ごとに異なる重要度の差を発見し、その差を交換の材料に変えることで、双方の満足度を同時に引き上げる技術です。差がなければ拡大の余地もない、という前提を忘れないでください。
複数論点を扱う交渉では、論点の数が増えるほど、当事者ごとの重要度の差が生まれやすくなります。単一論点の交渉では「奪い合い」しか起こりえませんが、論点が2つ、3つと増えるにつれて、組み合わせの可能性は急激に広がります。だからこそ、レッスン2の準備段階で、価格以外にどんな論点をテーブルに乗せられるかを、できるだけ幅広く洗い出しておくことが、統合的交渉の成否を左右します。テーブルに着いてから論点を増やそうとしても、相手には唐突に映りやすく、あらかじめ準備しておくことの価値がここにあります。
ログローリング——論点の重みづけの違いを利用した交換
複数論点を扱う統合的交渉の中心的な技術が、ログローリングです。ログローリングとは、複数の論点のうち、自分にとって重要度が低く相手にとって重要度が高い論点を譲る代わりに、自分にとって重要度が高く相手にとって重要度が低い論点で有利な条件を得る、という交換の考え方です。丸太を転がすときに、互いに力を貸し合う様子にたとえた表現です。
ログローリングを実践するには、レッスン2で準備した論点の重みづけが土台になります。自分にとっての重要度を整理したうえで、相手にとっての重要度を仮説として立て、テーブルの上で確かめながら交換の組み合わせを探ります。
具体的な場面で考えてみましょう。ある企業が、業務システムの開発を外部のベンダーに委託する契約を結ぶとします。発注側は「納期は今期中に必ず完了してほしい」という点を重視し、支払い条件についてはさほどこだわりがないとします。受注側のベンダーは「支払いを前倒しで受け取りたい」という点を重視し、納期には多少の余裕を持たせたいと考えているとします。この場合、発注側が支払い条件をベンダー側に有利な形にする代わりに、ベンダー側が納期を発注側の希望どおりに設定する、という交換が成立すれば、双方とも自分が重視する論点で望む結果を得られます。
🔰 初学者の方へ ログローリングは、「相手に譲る」のではなく「相手と交換する」という発想です。一方的な譲歩とは違い、見返りを伴う交換であることが重要です。見返りのない譲歩がなぜ望ましくないかは、レッスン6で詳しく扱います。
ログローリングがうまくいかないとき
ログローリングは、双方の重要度が食い違っている論点があって初めて成立します。もし双方が同じ論点をまったく同じ重要度で重視している場合、交換の余地は生まれず、その論点については分配的な話し合いに頼らざるをえません。すべての論点で交換が成立するとは限らないことを理解しておくと、統合的な工夫に過度な期待をかけずに済みます。
また、ログローリングを持ちかけるタイミングにも注意が必要です。相手の重要度の仮説が誤っていた場合、見当違いの交換を提案してしまい、かえって交渉のテンポを崩すことがあります。最初から確信を持って提案するのではなく、「この点については、御社にとってどの程度重要でしょうか」と、相手に直接確認しながら進める方が現実的です。
社内の交渉でも、ログローリングの発想は役立ちます。例えば、人事部門と現場部門のあいだで、新しい研修制度の導入時期をめぐって意見が対立する場面を考えてみます。人事部門は「今期中に導入実績を作りたい」という利害を持ち、現場部門は「繁忙期を避けて実施してほしい」という利害を持っているとします。導入時期そのものだけを見ていると対立に見えますが、「対象人数」や「実施形式」という別の論点を持ち出すと、交換の余地が生まれます。人事部門が繁忙期を避けた時期での実施に同意する代わりに、現場部門は対象人数を当初の想定より広げる、といった組み合わせです。導入時期という1つの論点だけで押し引きするよりも、双方が納得しやすい合意にたどり着ける可能性が高まります。
MESO——等価値の複数案を同時に提示する
統合的交渉のもう1つの技術が、MESOです。MESOとは、Multiple Equivalent Simultaneous Offersの頭文字を取った言葉で、日本語では「等価値の複数案の同時提示」と訳されます。自分にとってはほぼ同じ価値を持つ、しかし論点の組み合わせが異なる複数の提案を、同時にテーブルに乗せる技術です。
例えば、ある業務委託契約において、自分にとって等しく受け入れられる提案として、次の3つを同時に示すとします。提案Aは「単価は高めだが、支払いサイトは短い」、提案Bは「単価は標準だが、契約期間が長い」、提案Cは「単価は低めだが、業務範囲が限定される」というように、それぞれ異なる論点の組み合わせでありながら、自分にとってはどれも同程度の価値を持つように設計します。
MESOの利点は2つあります。1つは、相手がどの提案を選ぶかによって、相手が何を重視しているかが明らかになることです。相手がどの案を好むかを観察することで、相手の利害についての仮説を、実際のテーブルの上で検証できます。もう1つは、相手に選択の余地を与えることで、一方的に押し付けられているという感覚を和らげられることです。複数の選択肢から選んでいるという実感は、合意への心理的な抵抗を下げる効果があります。
📝 補足 MESOを作るには、複数の論点の組み合わせについて、自分にとっての価値がほぼ等しくなるよう事前に設計しておく必要があります。レッスン2で整理した論点の重みづけが、この設計の土台になります。準備なしにその場でMESOを作るのは難しく、事前の準備があってこそ機能する技術です。
MESOを提示するときの伝え方にも工夫の余地があります。3つの案をただ並べて「どれがよいですか」と尋ねるだけでなく、それぞれの案がどんな考え方に基づいているかを簡潔に添えると、相手は選びやすくなります。「単価を重視されるなら提案C、契約の安定性を重視されるなら提案B、初期の支払い負担を抑えたいなら提案A、というイメージです」といった説明を加えることで、相手は自分の利害に照らして選択しやすくなり、結果としてこちらは相手の利害についての手がかりを得られます。
MESOは、相手がどの案も受け入れがたいと感じた場合にも価値があります。3つの案すべてに難色を示された場合、相手の利害についての仮説がそもそもずれていた可能性が高いとわかります。その場合は、あらためて相手に「今回、特にどのあたりが難しいと感じられますか」と尋ね、仮説を立て直す機会として活用できます。1つの案を出して拒否されるより、3つの案を出して反応を観察するほうが、多くの情報を一度に得られるという利点もあります。
条件付き合意
統合的交渉のもう1つの実用的な技術が、条件付き合意です。条件付き合意とは、将来の不確実な出来事に応じて、条件が自動的に変わる形で合意を組み立てる方法です。双方が将来の見通しについて異なる予測を持っているときに特に有効です。
例えば、ある商品の需要が今後伸びるかどうかについて、売り手と買い手の見立てが異なっている場面を考えます。売り手は「需要は伸びる」と楽観的に見ており、買い手は「需要はそれほど伸びない」と慎重に見ているとします。この場合、単純に単価を1つに決めようとすると、双方の見立ての差がそのまま交渉の対立点になります。ここで、「実際の需要が一定の水準を上回った場合は単価をやや引き上げ、下回った場合は単価をやや引き下げる」という条件付きの取り決めにすれば、双方とも自分の見立てに基づいて納得できる合意が作れます。
条件付き合意が機能するのは、双方の予測が異なっているときです。予測の違いは、対立の種になることもあれば、統合的な工夫の材料になることもあります。「どちらの予測が正しいか」を今この場で決着させようとするのではなく、「実際にどうなるかによって結果が変わる」という形に落とし込むことで、対立そのものを解消できる場合があります。
⚠️ 注意 条件付き合意を組み立てる際は、その条件が誰にとっても客観的に確認できるものである必要があります。判定基準があいまいだと、合意後に「条件を満たしたかどうか」をめぐって新たな対立が生まれてしまいます。
条件付き合意は、双方の予測の違いを「賭け」に変える技術だと誤解されることがありますが、本来の狙いは異なります。目的は、どちらか一方の予測に無理に合わせるのではなく、実際に起きた結果に応じて自動的に条件が調整される仕組みを作ることで、予測をめぐる不毛な言い争いそのものを避けることにあります。双方が「自分の予測が正しければ、自分に有利な結果になる」という納得感を持てるため、合意そのものへの抵抗感が下がるという効果もあります。
社内の交渉でも応用できます。新しいプロジェクトの人員配置をめぐって、必要な人数の見立てが部門間で食い違うことはよくあります。「まずは少人数で始め、実際の業務量が一定の基準を超えた時点で追加の人員を配置する」という条件付きの取り決めにすれば、どちらの見立てが正しいかを今の時点で決着させる必要がなくなり、実際の状況に応じて柔軟に調整できます。
第三の案の作り方
ここまで見てきたログローリング、MESO、条件付き合意は、いずれも既存の論点を組み合わせる技術でした。もう1つ、既存の論点そのものを見直すことで生まれる解決策が、第三の案です。第三の案とは、最初に双方が提示していたどちらの立場とも異なる、新しく発明された解決策を指します。レッスン4で扱った「複数の選択肢を発明する」という原則を、実際に形にしたものが第三の案です。
第三の案を作るには、次のような問いが役立ちます。「双方の要求を、そのまま同時に満たす方法はないか」「そもそも、なぜこの2つの選択肢しかないと思い込んでいたのか」「この論点を、まったく別の切り口から捉え直せないか」。レッスン4の講師の現場メモで紹介した、仕様変更をめぐる交渉の解決策も、第三の案の一例です。仕様変更に応じるか応じないかという二者択一ではなく、検査工程はそのままに検査頻度を引き上げるという、双方の要求の奥にある利害を同時に満たす案が見つかりました。
第三の案は、思いつきだけで生まれるものではなく、レッスン2の準備で整理した利害と、本レッスンで扱った論点の組み合わせの発想があって初めて見つかりやすくなります。準備の質が、第三の案を発明できるかどうかにも直結しています。
第三の案を見つけるためのもう1つの手がかりは、「双方が同じ資源を取り合っていると錯覚していないか」を確かめることです。多くの対立は、実は限られた1つの資源をめぐる取り合いではなく、それぞれ別の資源で解決できる問題です。例えば、ある部署が「増員してほしい」と要求し、経営側が「人件費は増やせない」と応じる場面を考えてみます。表面的には人員の取り合いに見えますが、部署側の本当の利害が「業務量の増加に対応したい」ことであれば、増員以外にも、業務プロセスの見直しや、繁忙期に限定した外部委託の活用といった、まったく別の資源を使った解決策が見えてきます。人件費という資源に固執していた視点を外すことで、第三の案への道が開けます。
📖 もっと詳しく 第三の案づくりは、交渉の準備段階で1人で考えるだけでなく、テーブルの上で相手と一緒に考える共同作業として行うこともできます。「一緒に、もう少し違う切り口を探ってみませんか」と相手に持ちかけることは、対立的な姿勢ではなく、むしろ協力的な姿勢として受け取られることが多く、場の空気を和らげる効果も期待できます。
「値段だけの交渉」に落ちない設計
統合的交渉の技術を学んでも、実際のテーブルの上では、相手から「結局、価格はいくらにするんですか」と単一論点に引き戻されることがあります。こうした場面で「値段だけの交渉」に落ち込まないためには、交渉の設計段階から複数の論点をテーブルに乗せておく工夫が必要です。
具体的には、交渉が始まる前、あるいは交渉の冒頭で、扱う論点をあらかじめ複数提示しておくことが有効です。「今日は価格だけでなく、納期と支払い条件についても、あわせてお話しできればと思います」と切り出すことで、価格だけに焦点が絞られる前に、複数論点の土俵を作れます。交渉が進んでから追加の論点を持ち出そうとすると、相手から「後出しだ」という印象を持たれかねません。
🔰 初学者の方へ 「値段だけの交渉」に落ち込みそうになったら、いったん立ち止まって「ほかに動かせる論点はないか」を思い出してください。レッスン2で作った準備メモの論点一覧が、この場面での拠り所になります。
相手が単一論点にこだわり続ける場合でも、あきらめる必要はありません。「価格についてお答えする前に、納期のご希望も伺っておきたいのですが」というように、価格への回答をいったん保留しながら、ほかの論点への言及を差し込む方法があります。相手の質問に即座に一問一答で応じるのではなく、こちらのペースで論点を広げる余白を作る意識が、統合的交渉の土俵を守るうえで役立ちます。
統合的交渉の限界を理解しておく
ここまで統合的交渉の技術を見てきましたが、どんな交渉でも取り分の総量を増やせるわけではないという現実も押さえておく必要があります。論点が実質的に価格1つしかない単純な取引や、双方の重要度がすべて一致してしまっている場合には、交換によって双方が得をする余地はほとんど生まれません。このような場合は、無理に統合的な工夫を探し続けるより、レッスン6で扱う分配的な話し合いの技術に切り替える判断も必要です。統合的交渉は交渉のすべてを解決する万能の技術ではなく、パイを拡大できる余地がある場面で使う技術だと理解しておくと、実務での使い方を誤りません。
まとめ
このレッスンでは、以下のことを学びました。
- 複数の論点を同時に扱うことで、当事者ごとの重要度の違いを交換の材料にできる
- ログローリングとは、自分にとって重要度が低く相手にとって重要度が高い論点を譲る代わりに、自分にとって重要度が高い論点で有利な条件を得る交換である
- MESOとは、自分にとって等価値の複数案を同時に提示し、相手の選択から利害を確認する技術である
- 条件付き合意とは、将来の不確実な出来事に応じて条件が変わる形で合意を組み立てる方法である
- 第三の案とは、最初に双方が提示していた立場のどちらとも異なる、新しく発明された解決策である
- 統合的交渉の土俵を保つには、交渉の設計段階から複数の論点をあらかじめ提示しておく工夫が必要である
次のレッスンでは、取り分の総量を増やしたあとに残る、分配のフェーズに入ります。アンカリングと譲歩の設計という、テーブルの上での実践的な技術を学びます。
確認クイズ
このレッスンの理解度をチェックしましょう。